福音のオリジナルとは何か

2024.3.31 ヨハネ福音書20:11-23 ヨハネ福音書13回シリーズ最終回

 

あなたがたを遣わす

本日のメッセージはヨハネ福音書20章11-23節(新約209頁)より「あなたがたを遣わす」と題して、ヨハネ福音書13回シリーズ最終回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

本日はイースター礼拝です。キリスト教にとって復活の出来事は信仰の核心であり、不可欠なものだとパウロは論じています(1コリ15章)。実際私たちにとって、イエスの復活とはどういう意味を持っているのでしょうか。

憎しみや争いが絶えないこの世界におけるキリスト教の真の役割は、世界のさまざまな教えや生きざまを包摂(ほうせつ)した宗教多元主義的信仰を奨励してゆくことです。それは真理と思われる科学観を重視しながら、世界の多様な宗教観、哲学を是々非々で評価した上で捉え直し、再度肯定してゆくことです。

イエスは憎しみ合い裁き合う世界の壁を取り払い、和解させるために生きられたのであり(エフェソ2:14-16)、結果、篠栗教会で説いている信仰理解は、1コリント15章で語られるパウロの復活信仰のようにイエスの肉体の復活にこだわるものではなくなっています。

私たちは次の聖句から復活を捉え直してゆきたいと思います。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」(コヘレト12:7)というコヘレトの言葉の死生観に近いものを私たちは心に刻み、復活信仰を捉え直したいのです。

人間も他の動物も、すべてのものは死にゆく者であり、同時に同じ霊を与えられているのです。すべての生命体は塵で造られたものであるゆえ、やがて塵へと還ってゆきます。しかしまんなかにある霊だけは、聖霊なる神の懐(ふところ)に帰ってゆくのです(コヘレト3:19-20抜粋)。復活信仰を捉え直すために、私たちはまず「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」(コヘレト12:7)というコヘレトの言葉に表れている死生観を心に刻んでゆく必要があります。

復活信仰とは十字架の死に至ったイエスの教えと生きざまとを私たちの人格のまんなかにリアリティをもって築くことであり、そのイエスの教えと生きざまとを肯定してゆくことなのです。本日のオリジナル讃美歌「キリストが内に形づくられるまで」で歌われているガラテヤ4:19の聖句が私たちに伝えていることは、十字架の死に至るまで己の生きざまを貫いてゆかれたイエスによってキリスト教がこの世界に生じたのであり、私たちがそのイエスのイメージをしっかりと形づくって同じように生きてゆくことが求められているということなのです。それゆえパウロは生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きているのだと語っているのです(ガラテヤ2:20)。

その上で復活のイエスは、私たちの一人ひとりをそれぞれの場所に遣(つか)わされるのです。私たちの皆がイエスと同じように生きてゆく時に、混迷し膠着(こうちゃく)したこの世界は必ず良い方向へと変えられてゆきます。そのことに希望を持ち、復活を信じて私たちはそれぞれの使命のためにそれぞれの場所に遣わされて参りましょう。

 

 

 2024.3.24受難週礼拝 ヨハネ福音書13回シリーズ12回      

使命が成し遂げられた

本日のメッセージはヨハネ福音書19章17-30節(新約207頁)より「使命が成し遂げられた」と題して、ヨハネ福音書13回シリーズ第12回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

本日は受難週礼拝です。都エルサレム入りしたイエス一行は、最後の一週間で都を観察してまわります。そうして彼らはエルサレム神殿で税(ローマ帝国と属国ユダヤと宗教指導者たちの取り分となるもの)が上乗せされている高額な献げものが売られており、貧しい民らがそれらを買わされて、神殿にささげることを義務付けられていた犠牲のシステムを「強盗の巣」と批判しました。

イエスは弟子たちと神殿にあったすべての商店をひっくり返して商人たちを追い出します。貧しい民たちが延々と支配者たちを養う税を払い続けなければならなかったので、イエスは神殿にあったすべての商いをやめさせて、これらの犠牲のシステムを破壊したのです。

これまでイエスの一行がしてきたことは各地への伝道活動で得た献金や供物を用いて、空腹の貧しい民に施したり、病者たちを看護し癒し、人々の悩みを真剣に聴いて祈り解決に導くことでした。イエスはそれらの教えと生きざまとによって支配者によって、貧しくされ、虐げられ続けていた民らへの搾取の構造を創り変えてゆかれたのです。

イエスの一行のこれらの行動は支配者たちへの反逆となり、彼らは兵団に取り囲まれて捕らわれようとしていました。イエスは弟子を逃して一人で捕らわれます。裁判を受け死刑を言い渡されたイエスは鞭打たれ、死刑場に連れて行かれて、死刑に処されます。そして十字架の上で「成し遂げられた。」と言いました。

このことばの意味は彼の使命が成し遂げられたという意味でしょう。彼は平和を創り出す使命を聖霊なる神から託され、非暴力的世界平和に至る教えを説き、生き抜かれたわけですが、「成し遂げられた。」と宣言し息を引き取られたことは大きなインパクトを世界にもたらしたと思うのです。

世界の宗教やイデオロギーを是々非々で評価し正した後に、同じ方向性を目指す者たちと連帯するのが宗教多元主義ですが、イエスはこの生き方を成し遂げて私たちに指し示されたのです。

もし世界のすべてのキリスト者がイエスと同じように愛と非暴力的平和と正義と平等に生き抜いたら世界は大きく変わってゆきます。世界にはキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、その他の諸宗教、無神論的イデオロギー、最後に無法者たちがいることを私たちは認識し、イエスがなされたこのすべてをまとめあげて聖霊が導かれる神の国を創り上げる働きを受け継いでゆかねばなりません。

先週もモスクワでIS(イスラミックステイト)によって大規模なテロが起こり多数の犠牲者が出ました。侵略が正当化され、不平等な差別が横行し、格差が恒常化している…。彼らはそのことに憤り、反逆し立ち向かい、暴力で解決しようとしているのです。しかしそれは報復の連鎖であり何の解決にもなりません。イエスの十字架の出来事を覚える受難週に、これの誤った生き方を正してゆく使命が私たちに委ねられていることを再認識して参りましょう。

 

 

2024.3.17受難節第5主日 ヨハネ福音書13回シリーズ11回

真理とは何か

本日のメッセージはヨハネ福音書18章28-38節前半(新約205頁)より「真理とは何か」と題し、ヨハネ福音書13回シリーズ第11回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

本日の箇所でイエスはローマ総督ピラトの尋問を受けています。イエスはユダヤの祭司長・律法学者たちが遣わした兵団に捕えられて大祭司カイヤファのもとで裁判を受け極刑となり、ローマ総督ピラトのもとに送られます。そして祭司長・律法学者たちはローマ法のもとでイエスを死刑に処そうとピラトに圧力をかけるのです。

イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」とピラトに語ります。するとこの時イエスにピラトが「真理とは何か」と問いかけます。

この「真理とは何か」という問いかけはヨハネ福音書の核心テーマとなっているのです。ヨハネ福音書では繰り返し「真理」という言葉が使われており、ヨハネは読者であるわたしたちが聖霊なる神についてより深く思い巡らせるためにピラトに「真理とは何か」と言わせているのです。

真理とは何でしょうか。それはイエスの教えと生きざまであります。わたしたちは聖書から聖霊なる神の導きのままにイエスの教えと生きざまとを紡ぎ出し、そのイエスの教えと生きざまから、憎しみ合い、殺し合い、拗(こじ)れて膠着(こうちゃく)しているこの世界に非暴力的平和を創り出してゆくすべを学ぶのです。

先週わたしはNHKこころの時代で東日本大震災で福島第一原発事故の被災者となった浪江町の牛飼い吉田正巳のドキュメンタリーを見ました。原発事故で彼が飼う肉牛は汚染され売り物にならなくなったのに、185頭の牛を彼は慈しみ飼い続けているのです。

吉田は「牛たちがちゃんといのちを全うするまでわたしは飼い続けます。最後の牛が死んだころにちょうどわたしのいのちも終わることでしょう。」と語りました。

このことばにわたしは聖霊なる神の臨在を感じました。彼は浪江町に戻ってきて(戻って来た人は人口1割)少しずつ自分が被曝することが分かっているのに牛たちのいのちを守り続けているからです。

イエスは同じように「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)と教え、その教えを生き抜かれて十字架上でいのちをささげられました。

こころの時代には宗教多元主義が描かれていて、番組づくりにイエスの教えと生きざまがあらわれています。まさにそれこそがヨハネ福音書が表そうとした真理である思います。

イエスの教えと生きざまはあらゆる宗教やイデオロギーを超えてすべてのいのちを尊び、世界の憎しみや争いを鎮め、ひとつにまとめあげてゆくのだと私は信じるのです。

世界一の国土を有し日本の隣国でもあるロシアが黒海沿岸のオデッサの港町を激しく攻撃しウクライナからすべての港を奪おうと戦力で圧倒し追い詰めています。北朝鮮は核兵器の開発をやめません。中国は日本の尖閣諸島を虎視眈々と狙っています。日本政府は危機感を持って軍拡を進め、イギリス・イタリアと組んで次期戦闘機を開発し、他国へそれを輸出しようとしています。

しかし、私たちは軍拡ではなく平和外交によって東アジアの緊張を解き、非暴力的世界平和を作り出してゆかねばなりません。それこそが福音のオリジナルであるからです。

 

 

 

2024年3月10日受難節第4主日 ヨハネ福音書13回シリーズ第10回

平和を得るために世に勝利する

本日のメッセージはヨハネ福音書16章25-33節(新約201頁)より「平和を得るために世に勝利する」ヨハネ福音書16:25-33と題し、ヨハネ福音書13回シリーズ第10回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

本日の箇所の著者ヨハネが(ヨハネ福音書全体を通して)表現している贖罪論的な暗示については私には理解できぬ部分があります。けれどもイエスは私たちがイエス(の教え)によって「平和を得るために」(33節)これまで話してきたのだと言い、わたしたちには世の中で生きてゆく際にどうしても「苦難がある」(33節)、しかし「勇気を出しなさい。」(33節)イエスは(敵をつくり敵対し憎しみ合ってゆく)世の中の圧倒的な力にご自身の愛の教えと生きざまを貫くことで「すでに勝利している」(33節)のです。そして私たちもイエスに倣って勝利せよと励ましてくれているのです。

先週は水曜日午前にTさんと木曜日午後から妻と庭仕事をし、それぞれと協力して白棚のある南側花壇の剪定と除草をすることができました。水曜日午後から晴れてきたので子どもたちへのイラストとメッセージを描いたホワイトボードを外に出すと、ちょうどそこへ山口葵さんが来られ、チャリティコンサートの開演時間を決めて欲しいと要望されました。

水曜日夕方に「聖霊のかけら」という新しい讃美歌が一年がかりで完成しました。音楽教師の原田裕先生を見送り、ホワイトボードを見ると「明日卒業します!」とのこれまでジバニャンを何度も描いてくれていたマオくんという篠栗中の男の子がメッセージをくれ、次の日に「中学卒業おめでとう」とイラストとメッセージを描きホワイトボードを出しました。そして糟屋署にまだ破壊されて修復した白棚の弁済金が振り込まれないと連絡をすると、担当の刑事さんがちょうどその日の朝に相手方に連絡をしたところ、今日中に弁済金を振り込むと約束されたとのこと、その日に弁済金が振り込まれました。Fさんに修繕してもらった白棚のところで夫婦で庭仕事をしていたら、白棚が破壊された時に真夜中の異変について証言をしてくださったKさんが仕事を終えて歩いて来られ、「先ほど弁済金が振り込まれました。」と感謝を述べるととても喜んでくださいました。そしてこれから相手の更生を祈ってゆきます。

私はこれらすべての出来事に「互いに愛し合いなさい。」と教え導いてくださる聖霊なる神の導きを感じました。

私たちが平和を得るためには世に勝利しなくてはなりません。それは戦争を容認(あるいは黙認)したり、世界や社会の分断をなくしてゆくことです。私たちすべてのいのちは最初から聖霊なる神が創ってくださった愛され尊ばれているものなのであり、神の家族なのですから、敵と味方に区別してゆこうとする世の常識に囚(とら)われず、抗(あらが)ってゆかねばなりません。

「聖霊のかけら」というオリジナル讃美歌に、私は篠栗教会の信仰の在り方と私たちが成し遂げて行こうとする生き方とを表現して祈りを込めました。これから礼拝で讃美をして行ければ幸いです。

 

 

2024.3.3受難節第3主日 ヨハネ福音書13回シリーズ第9回

 

わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるなら

本日のメッセージは、ヨハネ福音書15:1-17より「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるなら」と題し、ヨハネ福音書13回シリーズ第9回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

イエスは自身をぶどうの木に譬え、わたしから離れずつながっていれば、良い実を結ぶようになるだろうと教えます。わたしにつながっていなければ枝であるあなたがたは枯れてしまうだろうと言うのです。

この時すでにイエスには幾人もの弟子たちがいて、育って来ており、大勢の人々にも慕われていましたが、ご自分が目指す世を実現させる前に、この先でご自身から弟子たちが離れてゆき、独りになってしまうことを感じとっていました。

愛する弟子たちがイエスのもとを離れても、再び彼の教えと生きざまに倣って愛と正義と非暴力的平和の道を生き抜くことが大切だよと真心(まごころ)を込めて説いているのです。

 弟子たちはイエスが死を覚悟していることを感じとります。安土桃山時代、明治維新、太平洋戦争、戦(いくさ)の世において武士道に生きたまことの人たちは主君のために命をかけて戦い死んでゆきました。秦の時代を描くキングダムを見ると中国の歴史も同じです。勝者はほんのわずかで、多くの者らは負けて死んでいったのです。

 しかしせっかく命をかけるのなら私たちキリスト者は敵をも愛してゆきましょう。真のキリスト教は丸腰でなければ伝えられません。イエスとガンジーとキングと中村哲に共通した素晴らしさは、武装をせず、平和的手段で愛と正義と平等とを説き続けたことです。

 わたしが憂えることは今の日本の指導者たち、ロシアとウクライナ、イスラエルとガザ、世界の指導者たちが愛と非暴力的平和の道を生きていないことです。

 篠栗教会は小さな群れですけれど、愛と非暴力的平和の道を歩み続けます。日本バプテスト連盟諸教会は平和宣言交読文で謳われている教えに生きており、篠栗教会はその先頭に立ち続けます。私たちが目指すのはまず私たちが愛し合って教会のまわりに温もりのあるコミュニティを築くこと、それを日本全体に広げてゆくこと、そうして東アジアにまことの平和を築き、そこから世界平和を実現してゆくことです。

 先週金曜日雨が止んだのでホワイトボードに愛と祈りを込めて掲示をしたら、子どもたちから温かい返答がありました。勇気をもらってホワイトボードと庭仕事を今週も続けます。そして3月20日(水・休)に子どもたちが集まることができて、庭で遊ぶことができるようにと祈っています。

 先週山口実、葵ご夫妻と太郎良執事、牧師夫妻の5名で8月30日(金)のコンサートの打ち合わせ会を行いました。8月のチャリティコンサートは山口ご夫妻の提案で「和(なご)みコンサート」と名付けられました。和みには篠栗町に平和が広がるようにとのご夫妻の祈りが込められています。同時に私は篠栗教会に平和塾を東ブロック子ども教会キャンプの仲間と創ろうとしています。私は毎週聖書を批判的に読み、取捨選択再構成してメッセージを続けています。それは聖霊なる神の愛の啓示を脳裏に描く作業です。「互いに愛し合いなさい」(12節)とイエスの言葉を私たちが信じて生きる時に、非暴力的平和は必ず実現します。だからこれからも聖霊が示される言葉を語ってゆこうではありませんか。

 「わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネ15:7)とあります。次週のメッセージ題は「平和を得るために世に勝利する」です。聖霊に導かれながらイエスの言葉を繰り返し心の内でイメージして、信じ続けゆきましょう。

2024.2.25受難節第2主日  ヨハネ福音書13回シリーズ第8回

 

栄光を現わすとは何か

 本日のメッセージはヨハネ福音書11:27-36前半より「栄光を現すとは何か」と題し、ヨハネ福音書13回シリーズ第8回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

栄光の架け橋という歌をご存知でしょうか。これはゆずという有名ユニットが作ったアテネオリンピックの時の主題歌です。世界を舞台に金メダルという栄冠に輝いてゆく姿を歌ったもので、栄光という言葉は輝かしい選手の姿をイメージして使われています。

 本日の聖句は「すると天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』」です(ヨハネ福音書12章28節抜粋 新約192頁)。

 ヨハネ福音書はイエスを栄光に満ちた存在として描きます。すでに水をぶどう酒にして見せ、空腹の五千人のお腹を満たし、死者を蘇らすという様々な奇跡を現し、人々から賞賛されたイエスが「この時のために来た」のだと自らの使命を現す時なのだと言うのです。ヨハネ福音書を読み進めるとイエスの最期はむごたらしい辱めの象徴である十字架の死なので、イエスの栄光とは、私たちが栄光として通常想像する意味とかけ離れた逆説的なものであることが分かるのです。

  十字架に向かったイエスの教えと生きざまはどこまでもすべてのいのちを例外なく愛し続けてゆくことであり、自分からは人を殺めないというイエスの生きざま、その結果が十字架なのであって、十字架に至る生きざまの意味と正しさとを私たちに指し示していることが私たちに分かってきます。

  今私たちが生きている世界には成功しもてはやされている人を妬みチャンスを見つけ蹴落としてゆくところがあります。そして自分より弱い人を見つけたらよってたかっていじめ抜いてその人が自死するまでやめない醜(みにく)いところがあります。そうした現実を神は露(あら)わにされて、創り変えようとされています。そんな私たちを神は愛して、イエスの生きざまに倣って生きよと教えているのです。そのことがキリスト教の福音なのです。

 この十字架に至るイエスの教えと生きざまに倣って生きることによって、私たちが生きている弱肉強食で過酷な世界の現実を創り変えることができると私たちに思わせてくれるのです。このことに励まされ、私たちは手を取り力を合わせて非暴力的世界平和を実現してゆこうではありませんか。

 すべての人が幸せに生きる世界は実現可能なのです。イエスの十字架の出来事はそのことを私たちに指し示していまます。すべての人がイエスの教えと生きざまに倣って生きれば、世界は聖霊なる神が願うように平和となります。このことが神の栄光となるのだとヨハネ福音書は物語っているのです。

 

2024.1.18受難節第1主日 ヨハネ福音書13回シリーズ第7回

 

死者の復活をどう捉えるか

本日のメッセージは、ヨハネ福音書11:17-27より「死者の復活をどう捉えるか」と題し、ヨハネ福音書13回シリーズ第7回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

本日の物語は主人公はマルタ、マリア姉妹の末弟ラザロで、彼の病死からの復活という奇跡が描かれる箇所です。

イエスが日頃から家族のように親しく付き合っていた都エルサレムの郊外にあるベタニア村に住むマルタ、マリア、ラザロの三姉弟家族の弟ラザロが病に伏しているという知らせを使いの者から受けました。するとイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言いました。イエスは使いの者から知らせを受けてからさらに2日同じ場所に滞在されました。そんなわけで3姉弟の住むベタニア村に着いた時にはラザロは息をひきとっており、死後4日が経ち墓に葬られていました。

 イエスがようやく3姉弟の家に到着すると、姉マルタは弟ラザロが生きているうちに到着してくれていたらラザロは死なずにすんだのにとイエスに言いました。家族が悲しんでいる姿を見て、彼らと共にイエスは涙を流しました。イエスがいかにこの3姉弟を深く愛していたのかがここからうかがえます。

 墓は墓石で覆われていたので、イエスは「墓石を取り除けなさい。」と命じます。長姉マルタは「主よ、もう4日が経っているからにおいます。」と案じて言いました。イエスは「もし信じるなら神の栄光を見られると言っておいたではないか。」と応えます。そして「ラザロよ、出てきなさい。」と命じると死んで墓に葬られていたラザロは身体を包帯でぐるぐる巻きにされた姿で蘇生して墓から出てきたのです。そこに集まっていた群衆は皆それを見て驚嘆しました。

 祭司長たち、ファイリサイ派の人々は、盲人の目を癒し、死者を甦(よみがえ)らせるイエスに驚嘆し、このままでは自分たちの地位が危うくなり、ユダヤを統治するローマ帝国からも咎めを受けるだろうとイエスを殺す計画をさらに推し進めたとあります。

 私は前任地相浦教会の牧師であった30代半ばの時、長崎バプテスト教会員でギデオン協会メンバーであった方がギデオンラリーに来られていたのですが、突然脳幹出血で倒れられ危篤となり、同行していたお連れ合いに呼ばれました。医師はこの方が既に脳死状態にあると宣告されました。お連れ合いが私に祈ってくださいと依頼されたので、私は盲人を癒し、死者を蘇らせたイエスの業を想起しながら心から神癒(じんい)を信じて真剣にお連れ合いと妻と私とでこの方の癒しを祈ったのです。しかしこの方は癒されることはありませんでした。当時同じようなことが何度かありました。

 その後ニューヨーク同時多発テロに関与したとしてアフガニスタンのタリバンとの戦争が起こり、それに続いてキリスト教国米国と英国が世界の反対を振り切って、イスラム教国イラクと戦争を始め、佐世保からも米軍兵士が出撃し、日本の自衛隊も後方支援をする中で、私は毎週反戦メッセージをするようになりました。聖書の聖霊なる神の奇跡を信じるキリスト教徒たちがなぜ武力に頼り、戦争を続け、多くの人々を殺すのか、おかしいではないかと私は語り続けました。それから私は今の立場である現代科学を重んじ、聖書を批判的に説き明かす立場に変わり、奇跡物語をすべて信じて説き明かすことをやめて、代わりにいのちをかけて非暴力的平和の生きざまを貫いていくイエスの教えと生きざまとを私たちが信じ、同じように生き抜くのだということをメインに据えて宣教する者となったのです。

 今私は、病死した弟ラザロが蘇(よみがえ)ったというこの物語をフィクションであると考えています。聖書の中でこの物語はイエスの復活の前日譚的役割を果たしており、死に打ち勝った全能なる救い主であるキリストの権威を象徴してもいます。

そして、私は「イエスの福音を信じる者はたとえ死んでも生きる。」という言葉にこの物語の肝(きも)があると考えています。イエスもラザロも私たちも皆、生きものである人間のいのちを成り立たせているのは聖霊なる神の力であるという事実です。

 私は今年1月に九州大学病院に入院し心臓手術を受けました。手術は100人中2人は生還できないと説明を受け署名し、5時間の間心臓を止めてロボットアームを使っての弁膜症縫合手術をしました。無事壊れていた弁膜を縫い合わせてから5時間後にニトロなどを使って心臓を再び動かし蘇生して生還することができたわけです。現代科学の進歩に素直に驚かせられました。

今私たちはたとえ死んだとしても、非暴力的平和を貫くイエスの教えと生きざまを私たちも生きることができると信じていこうではありませんか。

 

2024.2.11公現後第6主日 ヨハネ福音書13回シリーズ第6回

 

 神の業が現れるために

   本日のメッセージはヨハネ福音書9:1-17、35-39より「神の業が現れるために」と題し、ヨハネ福音書13回シリーズ第6回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

   本日の箇所にも生まれつきの盲人が癒される奇跡が描かれますが、私は生まれつきの全盲者が見えるようになったと信じることを勧めません。全盲者がキリストを信じ神の癒しを望み、見えるようになったことに出会ったことがないからです。

    けれど将来最先端の映像技術を脳とつなぎ、全盲者が視力を手に入れる日が来ます。その上で私はこの物語がフィクションであると捉えると共にイエスを神と崇める信仰をも見直すべきであると考えます。日本は明治以降、太平洋戦争が終わるまで天皇を現人神(あらひとがみ)とし国家神道を推し進めました。国民を団結させ神国日本となって必勝が約束された侵略戦争への道をへと突き進ませたのです。さらに殉死する兵士たちを英霊として祀(まつ)る靖国神社を造り殉死者を神と考えさせ、敵兵を殺し、自らも死ぬ覚悟を持たせたのです。

    キリスト教の伝統的教理は、本来のイエスの教えではありません。ローマ帝国下にあるすべての人の罪を贖う救い主なる神としてイエスを祭り上げていったのです。福音書にはイエスを救い主なる神と告白する人に対しイエス自身がそれを口外しないようにと諭す箇所があります。これはメシアの秘密と呼ばれていて、イエス本人は自らを神と人々が崇めることを望まれなかったことを表しているのです。

    篠栗教会は聖霊なる神がキリスト教を超え、世界のすべての宗教を包含していると考えます。こうした捉えは神学的に宗教多元主義と呼ばれます。イエスは私たちと変わらぬ限界と弱さを持った人であり、聖霊なる神の力に満たされて救い主キリストの働きを全うしていったのです。聖書の教えを取捨選択し再構成し私たちが2023年4月に再確認した聖霊論的教えをイエスは説き、3年半にわたって十字架に至るまで生き抜かれたのです。そして私たちも聖霊に満たされる時に、イエスと同じように教え、生き抜くことができると信じているのです。

    偶像崇拝を禁じる教えも捉え直しています。世界のすべての宗教は、一旦尊重され、キリスト教と同じように教えの内容の是々非々が評価されるのです。そうしてゆくことが日本国憲法が謳う信教の自由の在り方と合致するようになります。今の私たちにとっての偶像崇拝とは、金銭欲や、核兵器という破滅的力の恐怖で縛り支配しようとする権力欲だと思います。私たち宗教者は、金銭や軍事力に頼まず、聖霊なる神に導かれ、どこまでも弱さを有する独りの人として、丸腰で敵を愛し世界を包み込んでゆくのです。それこそがキリスト教が目指す方向性であり、聖霊なる神を信じつつ、愛と非暴力的平和と正義と平等の教えをご一緒に証してゆきたいと思います。憲法が謳う政教分離は政治が宗教を縛ることはできぬとの意味であり、宗教(キリスト教)が政治に口を挟まないと言っているのではないのです。

 本日は信教の自由を守る日です。憲法で保障された信仰の自由はいのちがけで守らねば簡単に失われてしまいます。自民党の改憲草案に国民主権はありません。すでに有事法制が可決され憲法が骨抜きとなっており、いつ国民が国家に不当に囚われ裁かれる日が来るか分かりません。弱体化した立法府(国会)は行政府(政府)と対等でなく、司法府(裁判所)も国を訴えた原告がせっかく地裁で勝利しても高裁や最高裁で負けることが続き、憲法が謳う三権分立が成り立っていません。

 そのような中で私たちは信仰者として障がい者を健常者と変わらぬ神の作品と捉え、国民主権と一人ひとりの人権を訴え、国政選挙を重視し、国のリーダーを教会から生み出してゆきたいと思います。イエスを含むすべての人は何らかの弱さ、障がいがあり、そのことを現代医学は発達障がいと呼び、言葉を変えれば私たちの魅力ある個性となっているのです。

 私たちの神は聖霊なる方であり、国を超え、宗教を超え、イデオロギーを超えて、世界の民を神が創られた家族と捉えるのです。キリスト教を含めすべての宗教に善悪があり、それらを吟味し、取捨選択し、再構成することで私たちは共存共栄をしてゆきましょう。

 神の業が現れるために、障がいを持って生まれた私たちは、弱い時に強められることを知り、弱さを個性として尊び、力を発揮してゆきましょう。そして神の業が現れるために、すべての障がいを受けとめ活かして参りましょう。

 

2023.2.4公現後第5主日 ヨハネ福音書13回シリーズ第5回 

 

聖霊なる神の声を聞き分けよ

 

 本日のメッセージはヨハネ福音書10:7-18より「聖霊なる神の声を聞き分けよ」と題し、ヨハネ福音書13回シリーズ第5回、福音のオリジナルを学んで参りましょう。

 

 本日の聖書箇所で最も印象深いものは「私の羊は囲いの外にもいるのだ」(ヨハネ10:16)と羊飼いであるイエスが語っていることです。イエスの教えは、国や民族を超え、宗教を超え、イデオロギーを超えて、私たちに、そして世界のすべての人々に通じてゆく、普遍的な聖霊なる神に対する信仰と価値観とを提供してくれるのです。それがイエスの福音の素晴らしさであると私は考えています。

 

 「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊はひとりの羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:15-16抜粋)という教えは、私たち篠栗教会がその方向性と価値観を共有してゆく時に、大いなるメッセージの意味を理解し、力を発揮すると思います。世界のすべての人々の羊飼いであるイエスの声を聞き分けて、散らばっていた羊たちがあらゆるところから集まってくるのです。羊は囲いの中に守られているわけですけれど、今日の物語では教会を表しているその囲いの外にもイエスの声を聞き分けて集まろうとしている羊たちが大勢いるということを示唆しているのです。

 

  篠栗教会は今、科学的批判的な聖書解釈によって取捨選択をし、再構成をした「私たちがまず神の国である非暴力的世界平和を創り出す人となって、その生きざまをもって非暴力的平和を創り出す人を育ててゆく」という福音理解を語り続けることによって、国や民族、宗教やイデオロギーに囚われずに、様々なところにいてまだ篠栗教会に集われていない多くの人々をネット伝道を通しここに招くことができると考えています。

 

  昨日TBSのニュース番組である「報道特集」を見ました。今沖縄県民が反対しているにも関わらず、本土の私たち国民の同意もなく、辺野古基地が作り続けられ、それとは別に沖縄の離島に次々と自衛隊基地が作られています。日本政府はそのことをするために多くの国民の反対を押し切って有事法制を可決したのです。日本の自衛隊は、今や米軍の別働隊として組み込まれていて米軍の意のままに動かされていることに気がつかなくてはなりません。中国の台湾侵攻などで中国と米国が交戦をし出したら、米軍基地と自衛隊のある沖縄の島々や本土の基地は攻撃対象となります。そうすると、そこに住んでいる民間人も巻き込まれて大勢の死者が出ることになるのです。

 

  残念ながら今の日本の若者たちは戦争の悲惨さを知らず、日米同盟の今の方針と軍拡を支持してしまっているように思われます。それは私たちが政治に無関心で手をこまねいている間に平成の公教育がそのような若者たちを育ててしまったのだと反省させられます。

 

  日本バプテスト連盟の諸教会はイエスの非暴力的平和思想に立ち、戦争に反対し、日本の軍拡志向に反対してきました。有事法制が強行可決される時はシールズの奥田愛基君らと共に全国の都市で街頭に立って反対デモを行いました。けれども有事法制は可決され、防衛費は倍増され、ローンでもって米国兵器を大量に買わされて着々と軍拡が進行しているのです。

 

  私たち信仰者の生きる目的はイエスの遺志を受け継いで彼が目指した神の国を、非暴力的世界平和を築いてゆくことです。教会には障がいや貧しさや弱さを抱えて、イエスの教えに惹かれ信仰者となられた方々が少なからずおられます。しかしイエスの教えを人生に浸透させて生き始めると自身の想像を超えて、聖霊の導きの中で潜在していた力が引き出され、私たちは連帯し大いなる力を発揮できるようになるのです。

 

  内村鑑三、新渡戸稲造、賀川豊彦ら戦前戦後に活躍した幾人ものキリスト者リーダーたちのように、私たちはこの日本国のリーダーとして立ち、非暴力的平和の国日本を取り戻し、暴力が横行するこの世界に非暴力的世界平和である神の国の建設をリードしてゆきたいと思います。

  そのためには弱い立場に置かれた方々と共に生きること、惜しみなくすべてを分かち合って生きること、そうすることの素晴らしさによって、皆で証を立てて、仲間を増やしてゆこうではありませんか。

 

  以上の方向性を確認し、さまざまな価値観が横行する現代社会の中で、イエスをあのように生き抜かせた聖霊なる神の声を聞き分けて、私たちは「一つの群れ」(ヨハネ10:16)となって活動してゆこうではありませんか。

 

2023.1.28公現後第4主日 ヨハネ福音書13回シリーズ第4回

 

大麦のパン5つと魚2匹より

 

本日のメッセージは『大麦のパン5つと魚2匹より』と題し、ヨハネ福音書6:1-26から福音のオリジナルを学んで参りましょう。

 

この話はイエスが空腹の群衆に炊き出しをしたと考えれば理解できます。弟子の「大麦のパンと魚2匹を持った少年がいます。けれど5,000人という人数に対して何の役に立つでしょうか。」との発言に対し、イエスがパンと魚を増やす奇跡を行う筋立てを除いた上で考えるのです。

 

人々の中にはこの少年の他にも食べ物を所持した人々がいました。イエスの弟子集団が持つ食物を含め、イエスのもとに集まった群衆たちから集めたものを再分配することにより、全ての群衆の飢えをしのいだのです。そう考えると食べ物を「少しも無駄にしないようにしなさい。」とのイエスの言葉がクローズアップされ輝いてきます。今年元旦から能登地震で極寒の中、家を失いライフラインを断たれた大勢の人が出ました。私たち一人ひとりの小さな善意が彼ら全員を救うことになるのです。

 

イエス運動は放浪のラディカリズムと呼ばれ、3年半の宣教生活の中で弟子たちと共に町々を放浪し家々を訪ねながら教えを説き、托鉢(たくはつ)をして食べ物を供されました。イエスと弟子集団は人から施しを受ける身でしたが、民から供されたものを用いて貧しい人々、病で伏せる人々に施し看病をしたと思われます。

こうしたイエスの運動に今の私たちも倣うべきです。食品業界の見切り品をフードバンクに蓄え、子ども食堂が運営されています。谷本仰牧師の南小倉教会では月一度提供品を受け、ご飯会をし誰でも食べに来れると呼びかけています。全世界に今ある食糧は、世界の創り主、聖霊なる神の計らいによって80億の世界人口分を飢えさせることなく満たしているそうです。にもかかわらず世界の多くの人々が飢えているのは豊かな国が搾取して食べ物を独占し、争い殺し合い奪い合っているからです。各国が軍事でない最新技術を活かし、農林水産業を復興させ、世界の民が共存共栄し支え合い、幸せに生きる道を目指してゆこうではありませんか。今日本はGNP(国内総生産)は世界3位、国や大企業、既得権益者にだけ内部留保が貯まっており、そのような中で国民も貯蓄ばかりして社会に投資し還元することをしないことは経済を活性化させません。日本にも困窮者が大勢いることは明らかに政治と教育の怠慢であります。

それゆえ私たち一人ひとりがモチュベーションを発揮できる生きがいのある働きをしてゆきましょう。世界中が全体を支え前進してゆくシステムを、「少しも無駄にするな」とのイエスの本日の物語に学び、今一度創り上げてゆくべきなのです。

昨日私はNHK心の時代徐京植(ソキョンシク)追悼特集を観ました。徐京植(ソキョンシク)先日話したガザ特集の司会をした人なのですがその二ヶ月後に召天しました。番組で彼は自らを離散者(ディアスポラ)と位置づけ、世界中の離散民たちに自らを投影させていました。朝鮮人なのに日本に住む葛藤、韓国籍なのに北朝鮮籍だったかもしれないと思う葛藤、それゆえにそれぞれの国を敵視できずどちらも同胞だと思う感覚を吐露しました。それは群衆のすべてを同胞とし神の家族と考えるイエスの感覚と似ていました。

私はこの5000人の給食を篠栗教会の主の晩餐式の雛形にすべきだと考えています。本来主の晩餐式は今の儀式スタイルではなく食事会だったからです。私たちはこのような食事会を主の晩餐式として捉えてゆくべきではないでしょうか。

 

 

                       

2024.1.21 公現後第3主日礼拝 ヨハネ福音書13回シリーズ第3回

 

霊と真理とをもって礼拝せよ

 本日は公現後第三主日です。メッセージは『霊と真理とをもって礼拝せよ』ヨハネ福音書4:1-26ヨハネ福音書13回シリーズ第3回です。ここから福音のオリジナルを学んで参りましょう。

 サマリヤの女性とイエスの出会いの物語も奇跡的な表現が用いられますが、批判的に分析してみます。女性は真昼の正午に人目を忍んでスカルの井戸に一人で水を汲みに来た。そこに一人の見知らぬ若いユダヤ人男性イエスがいた。イエスは喉の渇きを覚え彼女に水を求める。通常ユダヤ人とサマリヤ人は交際をせず口を聞くこともない。イエスはあえて水を求め、女性が汲み飲ませてくれたので、自然と会話することになった。イエスは彼女からいろいろ過去の男性遍歴を聴き、乾くことのない水をまことの泉から汲んで飲むように助言した。女性はイエスと話し心が軽くなり、あなたは救い主だと告白した。

 女性が心を開いたのはイエスがサマリア人と付き合わぬユダヤ人の因習から解放され、分け隔てない愛の雰囲気を醸し出して、過去を抱えた彼女の傷を敏感に察し、短い触れ合いを通し彼女の心のわだかまりを解きほぐしていったから。

 サマリアには以前北イスラエルがあり、南ユダよりも先にアッシリアに滅ぼされ10部族が離散させられました。そして他民族が移住させられてユダヤ民族の血と宗教とが混交します。ユダヤ教は他宗教を偶像と嫌い、異宗教異文化を認めず差別し、ユダヤ人の神殿はエルサレムにサマリア人のはゲルジムに分かれていました。イエスはこの時我らが隔(へだて)の壁を超えて共に聖霊なる神を礼拝する時が来ると預言します。私たちはイエスと同じく宗教を超え、イデオロギーを超えて愛と非暴力的平和と正義と平等をもたらす聖霊なる神を信じる者となるべきです。私たちの中にも差別があります。また未だに不平等な日米地位協定による安全保障条約により米国からさまざまな支配を受けています。米国、中国、ロシアという大国と私たちは老獪な外交力を身につけ、食糧自給率の上昇、資源の確保、技術革新、教育向上、政治参加に取り組まねばなりません。差別を乗り越えていったイエスの姿勢に学び、私たちこそが日本や世界を創り変えるのだと動き出したいと思うのです。

 女性は人目を避ける精神状態から癒やされ見違えるように明るく解放され、持ってきた水瓶をそこに置いたままサマリア中に不思議な預言者のことを触れまわったので、大勢の人が彼のもとに集まります。人々はイエスから直接説き明かしを聴き、彼がユダヤ人から差別されるサマリア人を解放してくれる人だと悟るのです。サマリア人の心がイエスによって一気に解放されたことは誇張ではとも思えます。しかしイエスは良きサマリア人の譬え話でもサマリア人が自分を差別するユダヤ人を分け隔てなく救おうとする愛を描き、一方祭司、レビ人ら同胞ユダヤ人の偏狭さを対比して描きます。元々は同じユダヤ人なのに近親憎悪でサマリア人を見下していたユダヤ人を創り変えてくれることをとても評価していたことは確かでしょう。

 この話はユダヤ人とパレスチナ人、ロシア人とウクライナ人との関係を連想させます。この時イエスを突き動かした聖霊なる神は今の泥沼の殺戮、キリングフィールドを決して望んではいないでしょう。

 私は篠栗教会に非暴力的平和塾を創り、非暴力的世界平和を築く一歩として日本、統一朝鮮、中国による東アジア連邦を築く運動をして行こうと思います。独裁国家、中国、北朝鮮とどう関わるかとの難題が横たわっていますが、聖霊なる神の愛はすべてを結ぶ絆と信じています。孤独な独裁者は本当に信頼できる存在を潜在的に求めていますし、民主主義社会による分かち合いは尊いものです。両者の共存共栄こそが福音の姿で、すべてのことを可能にするのは聖霊なる神の業、コミュニケーションスキルなのです。

今週の聖句に「神は霊である。だから神を礼拝する者は霊と真理をもって礼拝すべきである。」とあります。聖霊のかけらをもらっていのちを得た者はその霊を用いて真理を見い出し行う者です。イエスはそれをしていった。私たちも同じように生き抜こうではありませんか。「あなたがたはわたしよりも大いなることをするであろう。」このイエスの言葉を信じることが霊と真理をもって礼拝者として生きることにつながります。

 

2024.1.14公現後第二主日 ヨハネ福音書13回シリーズ2回

 

十字架につけられたキリストを宣べ伝える

 

 本日のメッセージは『十字架につけられたキリストを宣べ伝える』ヨハネ福音書2:1-11ヨハネ福音書13回シリーズ第2回です。ここから福音のオリジナルを学んで参りましょう。

 聖書教育誌ではカナの婚礼での奇跡の物語が取り上げられています。婚礼の祝いの席にイエスと母マリアが参加しており、人々にふるまうぶどう酒がなくなってしまいました。台所の一員であったマリアがイエスにそのことを伝えると、イエスは客人たちが清めに用いていた6つの水瓶(みずがめ)をいっぱいにしてからそれを汲んでお客のところに持っていくように給仕たちに命じました。給仕たちが言われた通りにするとその水は極上のぶどう酒に変えられてふるまわれ、客人たちは彼らを招いた新郎に対し、最初に良いぶどう酒をふるまって、酔いがまわった頃に良くないぶどう酒を出すものなのに、あなたはよくもこんな極上のぶどう酒を最後まで取っておいものだと驚き賞賛したという話です。

 イザヤ書の預言を読むと、救い主のおとずれを「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。…その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。」(イザヤ25:6-9)と記しています。

 なんと良い肉と合わせて古い酒がえり抜きの酒としてふるまわれる祝宴に譬えて表現されているのです。このイザヤの預言がこのカナの婚礼の物語には反映されていることを今回学ぶことができました。このイザヤの表現では「救い主のことを神」と表現していますが、私たちはこれを私たちと変わらぬ人であるイエスに聖霊なる神が宿り、その霊が満ち満ちて働いていったことがイエスの3年半の宣教の生きざまと死であった、そして私たちもまたこのイエスと同じように生きてゆくことができるのだと捉えてゆきたいと思います。世界の皆がイエスと同じように愛と非暴力的平和と正義と平等に生きる時に世界に非暴力的平和、すなわち神の国が創り出され、世界のすべての民が幸せに生きることができるようになるのです。

 さて11節には「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行ってその栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた。」とあります。

ヨハネ福音書は奇跡を行う救い主イエスの栄光を強調しますが、私は奇跡の羅列はかえってイエスの珠玉(しゅぎょく)の教えである福音のオリジナルをぼやかしてしまうと考えています。

 今週の聖句1コリ1:22-23でパウロはユダヤ人は奇跡的しるしを求め、ギリシャ人は知恵を求める、しかし私たちキリスト者は十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのだと言っています。つまり水をぶどう酒に変えるような奇跡的しるしは、十字架に至るまでたった一人になっても、自らが説いた教えに生き抜いたイエスの生きざまに勝るものではないとパウロは考えていたのです。私たちはこのイエスの生きざまにこそ聴き従うべきだと思います

 

2024.1.7公現後第一主日 ヨハネ福音書13回シリーズ1回

 

もっと偉大なことを見ることになる

 

 

1月7日のメッセージは『もっと偉大なことを見ることになる』ヨハネ福音書1:43-51ヨハネ福音書13回シリーズ第1回です。ここから福音のオリジナルを学んで参りましょう。

 ナタナエルとはイエスの12弟子の1人バルトロマイです。フィリポはペトロらと同じベッサイダ出身でした。まずフィリポがイエスと出会いナタナエルをイエスのもとに連れてきました。最初ナタナエルは「ナザレから何の良きものが出ようか」とイエスに何の期待もしていませんでしたが、イエスが「あなたがいちじくの下にいた」と千里眼を披露したので、彼は「あなたは神の子だ」と一転して持ち上げます。そんな彼にイエスは「私が千里眼を披露したから信じたのか」と嘆息します。

 聖書には他にもたくさんの奇跡が描かれますが、今日の箇所と他の箇所も、私はすべての奇跡にあまり納得がゆきません。むしろ私は聖書の奇跡を信じたからキリスト者になったわけではなく、イエスの愛と非暴力的世界平和と正義と平等の教えが素晴らしく、イエスを突き動かしている宗教とイデオロギーを超えて働く聖霊なる神を信じているのです。イエスが説いた神の国..すなわち非暴力的平和の世界が創り上げられる道筋こそが、私にとってのまことの奇跡なのです。

 それは科学的に不可能ではなく世界のすべての人がそう決心したら実現することであり、それが世界のすべての民にとり真に幸せなことだと確信しているのです。今月私は入院し一ヶ月不在にしますが、聖書教育が選んだ奇跡の話を他の箇所を引用しながら一つ一つ独自解釈して意義付けていこうと思っています。ローマ帝国は最初キリスト者たちを激しく迫害していたのに後に帝国内にキリスト者がどんどん増えていった理由は、当時流行した死亡率の高い疫病(えきびょう)で苦しんでいた多くの人々が、キリスト者による決して見離さない愛とまごころを込めた看病で希望が与えられ、恢復していき、その患者たちが次々とキリスト者となっていったからなのです。そしてついにキリスト教がローマ帝国の宗教となったのです。

 正月にNHK100分で名著ジーン・シャープ特集が再放映されますが、米国人政治学者の彼はガンジーの非暴力的抵抗運動を継承して世界に推奨し、北アフリカなど世界の各地で次々に非暴力的革命で民主化を成功させていきましたが、ミャンマーの民主化においては軍事政権の激しい迫害に遭い、多くの民主化運動家たちが殺されてゆく中で、武力を用いることを認めてしまったそうです。アウンサンスーチーは獄中で存命していますが、側近たちはすでに殺され、民主化勢力は各地で戦っており、ミャンマー軍事政府は各地の反乱に苦戦をし、地方では民主化勢力に寝返る軍隊や警察も出てきているのです。

 これらのことに対して皆さまはどうそのことを評価するでしょうか。先週の応答の時では、皆さまからウクライナへの西側諸国の軍事支援が少なくなり、ウクライナの反転攻勢は苦戦している、そうした中でウクライナ大統領への批判の声も上がりました。私は非暴力的平和の福音を説く者としてウクライナの防衛戦争には賛同しません。殺しをする限りそれはロシアと同じく正義ではないからです。

 やはり宗主国イギリスに対し非暴力的抵抗を指導し独立を果たしたガンジーの行動こそ私たちの取る選択があると確信しています。だとするならジーンシャープの教えを離れ、今軍事的抵抗を続けているミャンマー民主化勢力の今後は良い結果を生まないかもしれないと私は思わされています。

 人間は弱く愚かです。ナチスの恐ろしい大量虐殺を経験したユダヤ人たちが今パレスチナ人たちを無差別に殺しているように、唯一の被爆国で平和を誓った私たち日本人が先制攻撃を是としたり核武装を支持する人々が増えていることも憂えています。今、私たちが非暴力的平和に立たなければ日本は真の正義を見失ってしまうと思います。

 今週の聖句は「あなたがたは私よりももっと大いなることをするであろう」とのマタイ福音書のイエスの言葉と共に、命がけのイエスの愛の教えを私たちが受け継ぎ、実行してゆくなら非暴力的世界平和は必ず築かれ、世界は一つとされ、世界連邦国家が樹立されてゆく、すなわち神の国が実現してゆく。

 

 もっと偉大なことを私たちは見ることになるのです。