『福音のオリジナルとは何か』  伊藤牧師メッセージ集

2020年9月27日主日礼拝メッセージ

      モーセの執り成し

 本日のメッセージは「モーセの執り成し」(出エジプト記9回シリーズ第9)と題し、出エジプト記32:1-14(旧約147)から語ります。十の言葉を板に刻みモーセが山を降りる前にヘブライの民は「いかなる像もつくってはならない。ひれ伏し、仕えてはならない。」(20:4-5抜粋)というできたばかりの契約の言葉を破りました。民はモーセが山から戻らないので不安になり、兄アロンと共に金でかたどった子牛の像を造ったのです。不思議なのは神は民が偶像を造るのを待っていたようにモーセに直ちに下山せよと命じ、偶像を造ったことを憤って民を滅ぼそうとし、モーセが思い止まるように執り成すと、神は民を滅ぼすことを思い止まったと描かれていることです。

 

 物語の筋を分析すると、神がエジプト人から金の飾り物をもらえとヘブライの民に命じ、モーセや民に好感を抱くエジプト人たちは別れ際にヘブライ人に金を渡したとあり、それらの金がこの子牛鋳造に使われたことが分かります(11:2-312:35-36)。またずっと後の時代になると、イスラエル王国が分裂する際に、北イスラエルの王ヤロブアムが金の子牛二体を造り、それを拝めと民に命じています(列王記上12:28)。本日の金の子牛の物語はイスラエル王国が分裂する預言的象徴となっているのです。新約聖書には「淫らな行い、悪い欲望、貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。神の怒りは不従順な者たちに下る。」(コロサイ3:5-6抜粋)とあります。金でかたどられた子牛とは私たちの内に巣食う拝金信仰を象徴していることも忘れてはならないでしょう。 

 

 ご承知の通り日本と世界には様々な偶像宗教が満ちています。イエス像、マリア像を拝むカトリック信仰もそこに含まれます。私たちプロテスタントも、イエスが神と教えを伝えたのにイエス自身を神とし拝むことが強調され、「愛と正義と平和にいのちをかけ、わたしに続け。」と教えたイエスに続こうとしないことに偶像性が潜んでいます。

 

 出エジプト記の学びは本日で終わります。私たちは上記すべてを把握した上で、神によって創られたすべての被造物が神の救いの中に置かれるようモーセのごとく執り成して行こうではありませんか。

 

 


2020.8.16篠栗キリスト教会礼拝メッセージ

 

  

                    神の共感、モーセの召命

    本日のメッセージは「神の共感、モーセの召命」(出エジプト記9回シリーズ第3回)と題し、出エジプト記3:1-15(旧約96頁)から語ります。預言者モーセの物語を今週も学びましょう。

 

  神はヘブライ人奴隷たちの呻きを聞いて共感し、モーセを預言者として遣わしエジプト王と交渉させるのです。

 

 「自分は何者なのか」(11節)と悩み戸惑うモーセに、神は彼が出生の時から命が奪われようとした時に、神の奇しい御手で守られ、支配者であるエジプト人の王子として育てられたこと、成人し自分が奴隷の子であると知り、奴隷が鞭打たれるのを見て怒りが湧いてエジプト人を殺害したこと、発覚を恐れ逃れた先で、ミディアン人祭司エテロの婿として祭司教育を受けたこと、それらはすべて預言者として立つ備えであったと気づかせるのです。

 

 そして神はご自身の名をモーセに明かします。神の名は「私は有る者」(14節)だと言うのです。モーセが預言者として成していくことは神の救いの歴史の一部なのだと教えます。族長アブラハム、イサク、ヤコブたちと共にいたように、今わたしがあなたと共にいると…(3:12)。まさにはじめからおられ、今に至るまで存在し続け、これからもずっと在り続けてくださる神が、奴隷解放を成し遂げるために、満を持してモーセを召し出されたのです。

 同じように私たちの神は、私たちの喜びの時も苦しみの時も悲しみの時も、いついかなる時も、共に存在し続け、それを共感してくださる方なのです。

 

 先週香港の周庭氏が国家安全法で逮捕されました。保釈された彼女は、恐れに打ち克って、自由を奪い思想統制することはおかしいことだ…と、独学で学んだ日本語で伝え続けてくれています。聖霊なる神の眼差しで見ると人々を恐怖で縛る者たちは倒され、中国は遠からず民主化されることでしょう。

 

 モーセと周庭さんには共通点があります。丸腰で言論によって闘う人であることです。

 私たち篠栗教会はモーセのように、周庭さんのように、たとえたった一人であったとしても、言葉を用いて巨悪に立ち向かい、歴史を動かしていく人を育てていかねばなりません。

 

 

 

 

2016327日イースター特別礼拝                  ヨハネ福音書211-14

 

                           喜びの食卓

  

 皆様、イースターおめでとうございます。

 本日は「喜びの食卓」と題し、メッセージをします。その朝ペトロたちは漁に出ていました。イエスが復活されてガリラヤ湖の岸に立たれているのを見ても、彼らは最初それがイエスだと分かりませんでした(21:4)。イエスが復活されたことを認識できなかったとの記述は復活の顕現物語の特徴です(ヨハネ20:14、ルカ24:16)。

  一晩中漁をしても何もとれなかったところに舟の右側にもう一度網を降ろせとイエスは命じられます。彼らが網を下ろすと引き上げることができないほどの153匹の大きな魚が獲れました。この153は「世界の諸民族」のことを表していると私は理解します。153匹の大小さまざまな魚が獲れたのに「網は破れなかった」(11節)のです。

 先週もベルギーのブルッセルで自爆テロが起こり多くの人が死傷しました。このテロは実は原発を狙ったものであることを知って世界は今、震撼しています。民族、宗教の諍いと憎しみは頂点に達しています。しかし「敵を愛せ」と語りかけるイエスの愛が、それらを超えてすべてのいのちを破れることのないご自身の愛の「網」で包み込まれていくのです。

 弟子たちが陸に上がると、炭火がおこされイエスが用意された数匹の魚が焼かれて食卓が用意されてありました。イエスは「さあ、来て、あさの食事をしなさい。」と弟子たちに語りかけられます。誰も「あなたはどなたですか。」と問い正そうとはしなかったとあります(21:12)

「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」(21:13)。ルカ福音書24章のエマオの途上の物語にも、食卓でパンを裂いてくださった姿を見て、弟子たちはイエスだと分かったという記事があります(ルカ24:31)。それらの食卓の場でのパンを裂き、魚を分けられるイエスの姿は、「主の晩餐式」で教えられた教会の在るべき姿なのです。

 イエスの心が込められた「喜びの食卓」によって弟子たちは、イエスと過ごした濃密な3年半の月日のすべてを思い起すことができたのです。これから出くわす荒波をも乗り越えていくことができるようになったのです。

 十字架に至る愛と義の御業を成し遂げられたイエスの語られた一つ一つの言葉を思い起こす時、私たちはイエスと共に復活の真の意味を知り、創り主である神を心から讃えることができるのです。今朝のイースター特別礼拝の後、私たちはイースター昼食会を行います。そこで今日学んだことを分かちあっていこうではありませんか。恐れや不安のただ中に置かれているわたしたちに「あなたがたに平和があるように。」(ヨハネ20:19)とイエスは語られています。「愛はすべての罪を覆う」(1ペトロ4:8)のです。互いに愛し合って行きましょう。もてなし合いましょう(1ペトロ4:9)。世界にある憎しみと諍いは、イエスの深い愛によって鎮められていくのですから

「『さあ、来て、あさの食事をしなさい。』と言われた。」

                  ヨハネによる福音書章2112

 

    

2016320日受難週礼拝メッセージ                               ヨハネによる福音書1916b-30

            

                                                  まことの王

 本日は「まことの王」と題しメッセージをします。死刑囚として人々から嘲られ十字架上で死したイエスが、奇しくもローマ帝国の総督ピラトによって「王」として取り扱わたことを学びます。

 ヨハネ福音書によれば、十字架にかかられたイエスの頭上には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(ヨハネ19:19)という罪状書きが記されたとあります。その罪状書きを巡ってローマ総督ピラトとユダヤ人の祭司長たちとが行うやりとりがヨハネ福音書にだけ記されています。祭司長たちは「王を自称した」と変えるように要請しますが、ピラトから拒否されています。

 罪状書きは「ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれた」(19:20)とあるのは、イエスがすべての民族の王であり、十字架の死がすべての民族のためであったと暗示するためです。イエスの服は4つに分けられ兵士たちによってくじ引きにされました。これは詩篇の預言の成就です(詩篇22:19)。

 そのような中で、あらゆる関係が引き裂かれる十字架の場においてイエスの遺言によって母マリアと弟子ヨハネが親子とされていかれます。イエスによって人と人との新たなつながりが起こされ、家族が再創造されていったのです。

 旧約聖書の中に、イスラエルの民が他の国々のようにイスラエルにも王を立てることを求めるところがあります(サムエル記上8:5)。神はその民の要求は神ご自身を退けるものだとし、民にこの世の王はいかなる存在であるかを教えるようにとサムエルに命じています。サムエルは、王は民に徴兵、徴税、徴用を課し、民は王の奴隷となり、その厳しさの故に泣き叫ぶこととなると言います。しかし民はあくまで王を要求したので、イスラエルは王制国家へと変わって行くことになります。 聖書は、この世の支配者は民の福利よりも、権力者の利益・都合を優先、民はそのために不当な搾取に泣かされることになると警告しているのです。

  聖書にはまことの「王の王、主の主」である方が差し示されています。「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることができない方です。」(1テモテ6:1516

 そしてヨハネの黙示録には、神が定められた時に現してくださるキリストが「王の王、主の主」である主なる神の象徴として登場しています(黙示録19:11-16)。

  最後にイエスは「渇く」(詩篇19:28)と言われ、兵士がヒソプの枝に浸したぶどう酒を受けられる(ヨハネ18:11)と「成し遂げられた」と言って息を引き取られてゆかれます。イエスは、「まことの王である主なる神の象徴」として、雄々しく痛みと孤独に耐え抜いて十字架の受難を全うされたのです。

 このたび韓国で神社参拝を拒否して殉教した周基徹牧師の映画が作られて、いずれ日本でも公開されます。周基徹牧師はその名の通り、基督への信仰を徹底して貫き、命を全うしていきました。

 私たちはイエスのように教えと生き様とを全うし、逃げることなく闘い抜いて死んでいったキリスト者に出会う時に、雄々しくイエスのように生きるのか、それともペトロのように挫折し再び立つのかはその時になってみなければ分かりません。人生は9転び10起きです。いずれにしても示された道を歩み通して行きたいと思います。    

「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエ

 ス、ユダヤ人の王』と書いてあった。」ヨハネによる福音書1919    

 

 

2016313日主日礼拝メッセージ         ヨハネ福音書1819-24

          

           なぜわたしを打つのか

 本日は「なぜわたしを打つのか」と題しメッセージをします。今日の箇所はイエス様が捕らえられ、尋問されるところです。この箇所の前後には有名なペトロの三度イエスのことを知らぬと否認してしまうつまずきの物語があり、それに挟まれるようにしてこの箇所は描かれています。

 ローマ兵士と大祭司の下役たちは、イエスを「捕えて縛り」(ヨハネ18:12)、大祭司カイアファのしゅうとアンナスところに連れて行ったのです。これはローマ帝国とユダヤの軍隊とが一糸乱れず連携している暴力の姿がありありと描かれているのです。これはちょうど日米合同演習を繰り返して連携を深めようとしている日本の現実と重なり合っています。

 イエスは大祭司の屋敷に連れてこられ、大祭司の前でご自身の正しさを訴えます。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。密かに話したことは何もない。なぜわたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」と自分の潔白をきっぱりと言明するのです。

 そのようなイエスをカイアファの下役が「大祭司に向かってそんな返事の仕方があるか。」と言って平手で打ちます。するとイエスは「何か悪いことをわたしが言ったなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」と激しく抗議しています。

 こうしたイエスの捕縛と尋問に「十字架の出来後」の真実を読み解くいくつものヒントがあります。

国が腐敗すると不義が横行し、闇金が動き(ユダに渡された金)、謀略が行われ(罪がないイエスに偽証者が建てられた)、理不尽な暴行(ムチ打ち、唾の吐きかけ、罵倒などのリンチ)が行われるのです。

 現代においても、まさに街頭やネット上で行われている在日の方々に対して行われる耳を背けたくなるヘイトスピーチがありますが、それらの思想的基盤となっているかもしれない「在日特権を許さない市民の会(在特)」という政治組織を政府が影で操っているということ、かつて霊感商法や洗脳騒動によって社会問題を起こした統一教会の裏側に米国CIAが暗躍しているということ、そこから流れた資金が自民党政治を支えたのではないかということ、原発再稼働の動きには、巨額の裏資金が動いているということ、沖縄辺野古では米日の圧政に立ち上がった市民たちへの機動隊の暴力が恒常的に行われているということ、そして昨日の報道ステーションで明らかになったこととして、福島では112名の子どもたちに甲状腺がんが発症しているのに政府がそれをまともに認めようとせず、マスコミも抱き込んで隠ぺいしようとしていることを私たちは目を背けることなく見据えていかねばなりません。

 今、神さまが私たちに願っておられることは、あらゆるところで正義が歪められ、不正が横行しているということを認識し、上記のイエスの受難の記事と今の私たちが置かれている現実とがオーバーラップしているということを実感することです。もはや私たち国民の暮らしを困窮させているのは何者の仕業なのかは明らかになってきています。私たちは今こそ立ち上がるべきなのです。正義の声を発するべきなのです。

 だからこそ私たちは、イエスの「なぜわたしを打つのか。」という真実の叫びをしっかりと聴いて行こうではありませんか(ヨハネ18:37)。

 

「何か悪いことをしたのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを

 言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」

               ヨハネによる福音書1823(新約205頁) 

 

2016年3月6日主日礼拝メッセージ                 ヨハネ福音書162533

 

         わたしはひとりではない

 本日は「わたしはひとりではない」と題しメッセージをさせていただきます。

今日のメッセージ題はヨハネ福音書14章から16章まで続くイエスの弟子たちへの「決別説教」の最後の部分の言葉です。この決別説教で語られている「わたしはひとりではない」(ヨハネ16:32)という言葉の意味は、イエスの弟子たちに向けてのセリフであると同時に、ヨハネ福音書の編集者である教団による、迫害された中で生きている1世紀末頃のキリスト者たちへの励ましなのです。

 ヨハネ162節に「人々があなたがたを会堂から追放するだろう。しかもあなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」とあります。「会堂から追放する」という言葉は、ヨハネ福音書の中で3回言及されています(16:29:2212:42)。1世紀末頃のキリスト者たちは、ユダヤ教の会堂でユダヤ教徒らと共に神を礼拝していました。しかしキリスト者たちが増えたので、ユダヤ教徒たちはユダヤ教の会堂に出入りするキリスト者たちを異分子として会堂から追い出してしまったのです。それはキリスト者たちが心の支えとしていた居場所を失うことを意味しました。ヨハネ福音書は、ユダヤ教の会堂から追放され、孤独な生活を強いられていくキリスト者たちを意識して書かれたのです。

 イエスの決別説教には、いくつかの「その日」という表現が用いられています。「今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その日には、あなたがたはもはやわたしに何も尋ねない。」(16:22-23)。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」(16:26)。

 この「その日」とは、厳しい抑圧から解放され、自由が与えられる日を指しているのです。イエスの直弟子たちも、後に会堂から追放されるキリスト者たちにとっても、父なる神が与えてくださる、抑圧から解放される「その日」への期待が、悲しみの「今」を生き抜いていく希望となるのです。

 一方イエスは、直弟子たちに「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや既に来ている」(16:22)と言われました。それは弟子たちが、この後逃げ去り、イエスが独りで捕らえられていくことを示しています。そしてそれはイエスが逃げ去る弟子たちを責めているのではなく、「しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。」と言うことで、いついかなる時も共にいてくださる神の存在を伝えているのです。

 さらにイエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(16:33)と語りました。厳しい弾圧のただ中で勇気を失わないことの大切さを説いています。

 

 今中国では13億の人口のうち1億人を超えたと言われているキリスト教会への中国政府の弾圧が続いています。中国政府にはイエスの教えに基づき平和と人権を訴えるキリスト者たちが目障りなのです。しかし私は弾圧されることによってますます中国のキリスト教信仰は燃え上がり、やがて中国はキリスト教国となっていくのではないかと思っています。1世紀末のローマ帝国下でもキリスト者たちは厳しい抑圧を受けましたが、それによってますますキリスト者が世界中で増えていき、ローマ帝国はキリスト教国となったからです。

 大統領選挙の予備選が行われている米国でも新自由主義によって生じた格差社会が是正されようとしています。戦争の名のもとに合法的に莫大な富を手にする死の商人たちの所業を黙認することの罪を米国のキリスト者たちが悔い改めていくことを願います。新自由主義の過ちを多くの人たちが気づき始めているのです。米国が変われば米国の片棒を担いでいる日本も変わり、日本の格差社会も見直されるでしょう。

 神は、はじめから「人は独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者をつくろう。」(創2:18)と語っています。人を社会の中で支え合い、助け手と共に生きる者とされたのです。高齢化社会で独り暮らしの方はますます増えていくでしょう。でも私たちは決して独りではありません。いかなる時も神が助け手をそばに置いてくださるのです。私たちは神に支えられながら共に生きる教会を築きあげていくのです。

 日本政府は武器や原発を輸出するためには湯水のようにお金を使っているのに、子どもたちが通う保育所が足らずお母さんたちは働きたくても働くこともできません。また高齢者の方々の介護費用は削られようとしており、国民の暮らしはますます苦しくなっています。

 原発再稼働によって環境を汚染させ、憲法を無視し、言論の自由を奪おうとする自公政権とは闘ってゆかねばなりません。野党5党の共闘で来る選挙に勝利し、私たちの意思が反映される政治と言論の自由を取り戻してゆきたいと思います。

 このたび野党5党の共闘を支援する市民連合ふくおかに名を連ねました。バプテストの牧師も多く参加しています。来る選挙にもし敗北したら闘いの先頭に立っているキリスト教会は厳しい立場に立たされるかもしれません。

 しかし市民連合の仲間と共に、今の苦難を乗り越え、平和と、自由と、放射能汚染から環境を守る闘いに是非とも勝利して行きましょう。

「わたしはひとりではない」(ヨハネ16:32)のです。勝利の主である神が共におられるのですから。 

 

『あなたがたは世で苦難があります。しかし、勇気を出しな

 さい。わたしは既に世に勝っている。』ヨハネ福音書1633

 

 

 

2016228日主日礼拝メッセージ     ヨハネ福音書15117

 

      イエスの愛にとどまる

 本日の聖書箇所はヨハネ福音書15:1-17を取り上げ「イエスの愛にとどまる」と題してメッセージさせていただきます。ヨハネ福音書において、13-17章まで十字架の死を前にして弟子たちとの晩餐の席で、イエスは一気にメッセージを語られています。

 この15章でイエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」15:1「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15:5)と語られています。この後に十字架の苦難を負われることになるイエスにつながって、その愛にとどまり続け、互いに愛し合い実を結ぶようにと真心を込めて、語りかけているのです。

 ここで「つながっていなさい。」(15:4)と訳された語と「わたしの愛にとどまりなさい。」(15:9)の「とどまりなさい。」(15:9)は同じ単語です。イエスの「掟を守る」ことこそが「愛にとどまる」(15:10)ことなのだと言い、その「掟」とは「互いに愛し合うこと」(15:12)なのだと諭しています。

 またイエスはそれ以前の13章で「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)と、まずイエスの愛が、弟子たちが愛し合うことに先立っていることを教えられています。このイエスの愛の先立ちは、「わたしが足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい。」(15:12)という教えにおいても一貫しています。

 さらに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと…」(15:16)と、まずイエスが弟子たちを選び、ご自身の意思を持って弟子たちにつながってくださるのであり、その先立つ恵みを土台として初めて、弟子たちはイエスにつながることができ、イエスの「互いに愛し合え。」(13:3413:3515:1217)との掟に生きて、「出かけて行って実を結ぶ」(15:16)ことができるのだと言われているのです。

 上記においてこれまで見てきたようにまことにイエスは弟子たちを深く愛し抜かれたのです(13:1)。「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない。」(ヘブライ13:5)と約束してくださる神を宣べ伝えられたイエスは、ご自身を官憲に売り渡したユダを含め、弱さゆえにご自身を置き去りにした弟子のすべてを見放しませんでした。それゆえどんなに弱く不信仰な魂も決して神から見捨てられることはありません。

 最近、向谷地生良(むかいやちいくよし)先生の最新刊である「精神障がい者と教会―教会が教会であるために」を読みました。北海道の浦河町にある精神障がい者の共同体「浦河べてるの家」のルーツである日本基督教団浦河教会は、30名余の教会員のほとんどが精神障がいを抱えておられます。浦河教会では毎週の礼拝で、一人ひとりが弱さの情報公開をしているのです。牧師もまた精神障がいを有していて、この本の中で自分と家族がどのように病と闘い、その中で病を理解し、受け入れて来たのかを包み隠さず証しされています。

 浦河教会の礼拝では、皆が一週間どんな辛いことがあったのかを分かち合うのだそうです。これまで問題が起きなかった日はなく、むしろ問題だらけだけれど、当事者とみんなが一緒になって一つ一つの難題を研究してきたそうです。べてるの家は多くのユニークな当事者研究の本をこれまで出版してきました。そしてこの本は浦河教会の当事者研究の本となっているのです。一人ひとりの抜き差しならない問題のすべてが「教会の財産」なのだと記されてありました。それぞれの病が治ったかというと決して治っていないけど、それらを皆が受けとめているのです。それらを否定せず認め、受け入れると「宝」となっていくのです。そうしたそれぞれの弱さを認め合って生きている浦河教会の姿に胸を打たれました。

 私自身も心の弱さを有していますし、きっと全国のどの教会にも何らかの弱さを抱えた方々が多く集われていることでしょう。教会は、弱さを抱えている者たちが集う群れであり、担い切れぬほどの多くの課題を背負っています。でも私たちは、お互いの弱さや、欠けを認め合い、赦し合って共に支え合ってゆきたいと思います。イエスの教えてくださった神は、私たち一人ひとりを愛し、受けとめてくださる方なのですから。

 だから「イエスの愛にとどまって」私たちは教会を形づくっていこうではありませんか。 

『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも

 互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。』

               ヨハネ福音書15章12節

 

 

 

2016214日主日礼拝メッセージ    ヨハネによる福音書1220-26

 

           栄光を受ける時がきた

 冒頭にギリシャ人たちが「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上ってきた」(12:20)と記され、彼らはイエスに会うことを望みます。

異邦人の来訪は、イエスの福音が世界に拡がっていくことを暗示しているのです。「わたしの時はまだ来ていない」(2:47:30)と語っておられたイエスが、本日の箇所で明確に「人の子が栄光を受ける時が来た。」(12:23)と告げるのです。

 「人の子」という呼称は、抑圧者を打ち破ってイスラエルを解放する救い主(メシア)を意味するものでした。イエスの「栄光」とは、人が羨むようなものではなく“逆説的”なものです。その「栄光」は、罵声を浴び、幾度もムチで叩かれ、釘打たれ、磔にされ、その象徴として頭に荊の冠を受ける十字架の死を意味していました。いよいよその「時が来た」のです。

 それからイエスは「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果を結ぶべし。」(24 文語訳)と語りました。

 一粒の麦の種は、地に落ちて地中の微生物、菌の働きで朽ちることによって、新しい多くの実を結ばせます。

 篠栗教会の行うガーデン伝道は、イエスの福音を体現するものにしたいと思います。そのために農薬で害虫や悪性菌と共に、益虫や良性菌までも殺してしまう化学農法でなく、益虫や良性菌を繁殖させ、すべての命を共生させながら土壌作りをしていく有機農法をとりたいと思います。難しいとされる有機農法を試行錯誤しながら会得してゆきたいのです。ガーデン伝道をする中で、自然界にあるあらゆる生命の尊さを知り、命の源である神への信仰が深められていくことを願います。

 

 私は「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(12:25)という新共同訳の表現に納得がいきませんでした。「自分の命を愛すること」がどうしていけないか、また何故「命を憎まねば永遠の命を得られない」のか

 この箇所をホームレス支援で知られる本田哲郎訳で読むと「自分自身に執着する者は、自分を滅ぼし、この世にからめ取られた自分自身をにくむ者は永遠のいのちに向けて自分を守りとおすのだ。」(12:25)と訳しています。新共同訳の編集委員でもある本田神父の『小さくされた人々のための福音』という個人訳聖書からの引用ですが、「この世にからめとられた自分自身をにくむ者は」との表現だとこの箇所が理解できるようになります。私たちは、この世の中の悪しき考え方に毒されると永遠の命に生かされていることが実感できなくなるのです。

 イエスは、心騒がせ逡巡しました(12:27)。彼には死を回避するため逃げることも、信念を曲げて異邦人や罪びととされ差別されていた人々との付き合いを絶ち、この世の権威者に従って生き延びることもできたのです。しかしそうしたほかの道を選ぶことをせずに、十字架への道を選びました。  

 「栄光を受ける時が来た。」(12:23)と唯一残された十字架への道を、一粒の麦として死ぬことを選びとっていったイエス。それまでの奇跡を行うイエスとは別のイエスの姿を見ます。私たちは死を覚悟し、濃密な数日間を過ごしたこのイエスから教えられて行きましょう。

『人の子が栄光を受ける時が来た。…一粒の麦は、地に落ちて

 死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実

 を結ぶ。』

                ヨハネによる福音書1223-24節抜粋(新約192頁) 

 

2016.2.7主日礼拝メッセージ                   ヨハネによる福音書111-44

 

           死で終わらない

今朝はラザロの復活の物語を学びます。ラザロは、都エルサレム近郊のベタニア村に住むマルタとマリア姉妹の兄弟でした。イエスは、この三兄弟と親しくし、彼らを深く愛していました。

ある日、ラザロが死の病にかかります。イエスがベタニア村に到着した時、すでにラザロは死んで墓に葬られ、四日が経っていました。

イエスが到着した時、迎えに出たマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21)と悲しみを表します。イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と告げられ、「このことを信じるか」と問いかけるのです(ヨハネ11:25-26)。彼女はイエスへの揺るがぬ信仰をもって力強く「はい、主よ。」(ヨハネ11:27)と告白します。

マルタ、マリアと群衆の前で、イエスは憤り、涙を流されます。そしてラザロの墓の前に立ち、墓石を取り除かせ、大声で「ラザロよ、出て来なさい。」(ヨハネ11:43)と命ぜられます。すると墓の中からラザロは体に布を巻かれながら自らの足で歩いて出てきたのです。それは都エルサレムをゆるがすほどの大事件となりました。

イエスがエルサレム近郊のベタニア村に来たということは、トマスが言うように死の危険を背負うことでした(ヨハネ11:16)。ユダヤ教指導者たちは、イエスが安息日に盲人を癒し律法に背いたこと、救い主と自称し神を冒涜したこと、ラザロを復活させ民を騒乱させたことにより、このまま放置してゆけば、やがてイエスのもとに蜂起が起こり、ローマ帝国からユダヤの国が滅ぼされてしまうと恐れました(ヨハネ11:48)。そして彼らはイエスを殺す決意を固めました(ヨハネ11:53)。イエスは受難の道を進んで行かれます。

ヨハネ福音書は、文学的、論理的に筋立てられています。第一のしるしは水がぶどう酒に変わる奇跡(ヨハネ2:1-11)、第二のしるしは五千人にパンが配られる奇跡(ヨハネ6:1-59)、第三のしるしは盲人が癒される奇跡(9:1-41)、そして第四のしるしがこのラザロの復活の奇跡です(ヨハネ11:1-57)。これらの奇跡は、救い主の十字架の受難と復活という神の栄光の御業が顕わされるためになされたものです(ヨハネ2:116:299:311:4)

私たちの創造主である神は、永遠なるお方です。神はご自身の御旨を明らかにされるために、救い主イエスを遣わされました。神の教えを命がけで宣べ伝えられたイエスの生き様と、十字架に至る死に様によって、私たちが如何に生きるべきかを示されたのです。イエスは、その鮮烈な生涯によって現代に生きる私たちの内側に今も生き続けておられます。それが復活の真の意味なのです。

長寿を全うする人がいます。病のために短い生涯を終える人がいます。しかし私たちの誰もが、この生涯を終えたら、神の御もとに還り、永遠に安らぐことができるのです。一度死したラザロの復活は、私たちの人生が「死で終わらない」(ヨハネ11:4)ことを象徴しています。

今朝、イエスは「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25)と私たちに問いかけられておられます。私たちは、「はい、主よ。」(ヨハネ11:27)と信仰をもって喜んで応える者とされてゆきたいと思います。

 

『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、

 死んでも生きる。』    ヨハネによる福音書1125(新約189頁)

 

 

 

2016131                          ヨハネによる福音書935106 (新約186)

            

               羊はその声を聴き分ける

 本日のメッセージ箇所は、9章の「生まれつきの盲人の癒しの物語」と10章の「羊の囲いの譬え話」とを章を跨いで取り扱います。

 9:1からの「生まれつきの盲人の癒しの物語」は、イエスが盲人に業と指示を与える(9:6-7)ことで癒していく話です。しかし、その日が一切の労働をしてはならなかった安息日であり、癒された後にこの人が会堂でイエスが(安息日に)癒してくださったと証をしたので、それが労働と判断されてユダヤ人の間で大問題となってしまいます。

 ユダヤ教には、「会堂追放令」(9:22-23)という厳しい掟がありました(12:4216:220:19参照)。生まれつきの盲人の両親は、この「追放令」を恐れて彼を見放しています(9:20-21)。そしてあろうことか癒された彼だけが「外に追い出され」(9:34)るのです。この出来事には、当時のユダヤ教社会の障がい者に対して、律法違反者(異端者)に対しての根の深い差別が表れていると思います。

 さて、10章1節に「羊の囲い」という表現があります。当時の羊飼いたちは、日中に放牧し、夕方になると囲いの中に入れていました。それは夜間に狼などから羊を守るためであり、羊は囲いに入れば安全であったからです。「囲いの門」を通らないでほかのところを乗り越えて来る者は「盗人、強盗」であり、彼らは盗むために門番のいる門を通らずに「囲い」を超えて来るのです。

 今日の箇所の後の部分(10:7以降)をしばらく見てみましょう。1011節からは、狼が襲ってきた時に無責任な「雇い人」(10:12)であれば「羊」を置き去りにして逃げてしまうけれど、「良い羊飼い」(10:11)は、その「命を捨てて」(10:11)でも羊を守り抜こうとすると説き明かされています。もちろん「主の忠実なしもべ」であれば「主」に忠実に従うでしょうが、無責任な「雇い人」と「忠実なしもべ」とは根本的に違うというのです。これらの教えには、とても説得力があると思います。

   一方7節以降には、イエスは「羊飼い」であり、「羊の門」(10:7)でもあると言われています。そしてイエスは羊飼いであり、門であるけれど「私が来る前に来た者は皆、盗人であり強盗である。」(10:8)というのです。これらの記述の「私が来る前に来た者は皆、盗人であり強盗である。」(10:8)と言う表現は、「皆」というところに共感することができません。

 ヨハネ福音書以外に目を向けると、マタイ福音書には「羊を右に山羊を左に」(25:33)と振り分けていく「救いと滅び」の教えがあります。自分から見て山羊とされるのではないかという人々に向けて「この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命に与る」(マタイ25:46)との裁きを当てはめることには躊躇があります。こうした箇所に基づき信仰していくと、だんだん偏狭な信仰に陥ってしまいます。

 ヨハネ福音書に戻りましょう。「門番は羊飼いには門を開き、羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」(10:3)「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」(10:16)という記述を考えてみます。ここではそれまで一定の役割を果たしていた「羊の囲い」(10:1)の概念はもはや重視されておらず、やがて「イエスの声(教え)を聴き分ける者たちは囲いの内と外とで一つの群れになる。」(10:16)と預言されているのです。

 イエスは、書物を書き記していません。新約聖書はイエス自身の言葉ではなく後世の信徒がイエスの言葉として自らの信仰理解を書き記しているのです。つまり私たちは聖書のイエスの言動の中で真理と思うものをイエスの教えとして、よくよく検討してから受け入れ、信じ実行していけば良いのです。

 今でも所属教団の倫理に反して群れから追放(除籍)される人がいるかもしれません。しかし私たちはむしろ悪習慣から抜け出せない人を忍耐強く指導し、最終的に神の憐れみの中で救いに導いてゆかねばならないと思います。

 世界には様々なキリスト教的カルト教団があり、その教理の根拠は「聖書」です。紛れもなく彼らの思想は「聖書」から派生しています。例えば「救いと滅び」は聖書の重要教理ですが、人の心をマインドコントロールし、縛っていくカルト性を有していると思います。

 私が新約聖書に記されているイエスの教えの中で素晴らしい「真理」だと信じているのは、クリーンなイメージを持っていた人が実は不倫を犯していたことを知ると容赦なくバッシングしてしまう私たちに、伝説のスターが薬物を服用していたことを知るとひどく失望する私たちに、イエスは彼らを何度でも赦しなさいと教えていることです(マタイ18:22)。私たちの秩序を乱し、迷惑をかけ続ける人たちを疎み、身の廻りから追い出して、平穏な暮らしをしたいと思う私たちに、「それでいいのか?」と問いかけて来られるのです。この世に「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)のです。悪人にも善人にも太陽を上らせ、雨を降らせてくださる方は、すべて創られた命を愛され、尊ばれています。そして全ての人は、命を全うしたら神のもとに帰り、安らぐのです。

 私たちのすべてには、自らの罪を棚に置き、善人に身を置いて、罪人を許せずに裁いていく罪深さがあります。しかし「770倍、敵を赦し、愛してゆけ。」とのイエスの教えこそが真の福音なのです。この愛と赦しの教えに触れる時に、そのイエスの愛によって私たちは奇跡的にその愛に倣う者へと変えられていくのです。 

 それゆえ、上記の「囲いの内にも外にも羊がいる」(10:16)という考え方は、私たちの福音理解に合致します。イエスは「『囲い』に入っていないほかの羊もいると言われ、その羊も導かねばならない。」(10:16)と言っています。

 当時のファリサイ派の信仰者が癒された盲人を追放したのは、律法違反を犯したイエスを公然と支持したからです。翻ってこの物語での「羊の囲い」(10:1)とは、羊飼いであるイエス(10:11)の名のもとに築かれたヨハネ教団のことを指しており、「盗人」「強盗」(10:1)とは、彼らを異端視し迫害していたユダヤ教的キリスト者を指しているのです。「羊」とは羊飼いであるイエスの声を「聞き分ける」(10:3)ことができるヨハネ教団の信徒たちのことなのです。

 当時のユダヤ社会の「囲い」から追い出されてしまった人のことを聞いて、イエスはその人を見つけ出して、決して見放さない方です(9:35)。福音は、私たちの人生に自由をもたらすものです。それ故、あらゆる宗教、人種差別、偏見、政治的弾圧などの「隔ての壁」(エフェソ2:14)を取り払っていかねばなりません。今も人を縛り、傷つけていくカルト教団が聖書の言葉を根拠に人々の心を操り、お金や自由を奪っています。神のことを語っていても良い歩みをしているとは限りません。神のことを語らずともイエスと目指す方向が一緒である可能性もあるのです。

 だから「羊はその(羊飼いの)声を聞き分ける。」(ヨハネ10:3)ことです。救い主は、分断された世界を一つにし、和解させるために来られたのです。それゆえあらゆる「隔ての壁」(エフェソ2:14)を取り払いましょう。この世には羊飼いであるイエスの教えとされている様々な教えがあります。私たち羊は、その教えの一つ一つを検討し(コリント一14:29)、「その声を聴き分けていく」(10:3)必要があるのです。

     「羊はその声を聞き分ける。」

                        ヨハネによる福音書103節抜粋

 

 

2016124日主日礼拝メッセージ                             ヨハネによる福音書6115

  

                命のパンをいただいて

 本日の5つのパンと2匹の魚の奇跡の物語は、四つの福音書全てに記されている大切な箇所です。

 ヨハネによる福音書でも、イエス様のもとに数々の病の癒しのしるしを見た大勢の群衆が詰めかけた様が描かれてあります。この時イエス様は、「群衆たちに食べさせるパンがどこで買えるか」と弟子たちに問いかけています。

 フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」(6:7)と答え、アンデレは、少年が持っていた「パン五つと魚二匹では何の役にも立たないでしょう。」(6:9)と答えています。

 しかしイエス様は、「わたしは命のパンである。」と宣言され、ご自身が直接人々に食べ物を配り、弟子たちに「少しも無駄」にならぬよう残ったパンの屑を集めるように命じられました。そしてヨハネ福音書は、弟子たちは籠いっぱいに「パンの屑」を集め、「12の籠がいっぱいになった」(6:13)と記すのです。

 このパンの奇跡(6:1-15)は、後述の「あなたが、イエスは神の子メシアであると信じることであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:31)とのメッセージと結びついています。

 また616節からは「朽ちる食べ物」(6:27)としてのパンと「永遠の命に至る食べ物としてのパン」とが対比的に語られます。そして「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」(6:33)と語られ、さらに「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6:35)というイエス様の宣言へと至ります。

 私たちは、月に一度の主の晩餐式を通し、晩餐式のパンをイエス様のみ体である「命のパン」としていただいています。これはイエス様のことばの成就です。しかし、いつの間にか今日の箇所に出てくる人々のように、私たちがイエス様を「この世の王」(6:15)にしてしまったら、その考えをイエス様は「退けられる」(6:15)ことでしょう。現代の“栄光の神学”を標榜する人々の問題とは、イエス様を「この世の王」とすることにあります。イエス様を「権力と富の象徴」としているのです。

 先週パウロやルターは、私たちをそのような“栄光の神学”にではなく“十字架の神学”へと招いていると学びました。パウロは、ステファノが石打たれ殺される時に、自らを殺す人々を赦し、「主よ、この人たちを赦してください。何をしているのか分からないのです。」ととりなし祈りながら死んでいったのを見て衝撃を受けました。その後、ダマスコへの途上で、持病の発作を起こして倒れた時に、「十字架につけられたキリスト」(コリント一1:23)と出会ったのです。そしてその時、どんなに迫害しても、ひるまずキリストの福音を伝道し続けるキリスト者の中に、キリストが生きておられることを悟ったのです。

 さて、本日の5つのパンと2匹の魚の奇跡物語には、現代に向けた大事なメッセージが含まれていることを下記において記したいと思います。

 世界の貧しい国々には飢えている方々がたくさんいます。しかし、一方で日本を含む先進国が世界の食べ物を買い占め、食べきれずに余らせ、腐らせているのです。日本人である私たち一人一人は、飢えている方々のために「5つのパンと2匹の魚」を買う分のお金を献金することができます。

 またコンビニやスーパーなどに流通している食物が余っているのならば、「少しも無駄にならないように」(6:12)集め、今飢えている方々のもとに届けることができるのです。

 先日の報道によると、北朝鮮で水爆実験が行われました。北朝鮮ではこの冬の寒空の下で飢えている方々がたくさんいます。これまで彼らのために多額の支援金が送られました。しかしそのせっかくのお金は、飢えている人々のために使われず、その多くが今回の水爆実験のための費用となっていたのです。北朝鮮は、核兵器を持たなければ、いずれ核保有国である列強から滅ぼされてしまうという危機感から水爆実験したのです。それ故このことは北朝鮮だけの責任ではありません。核保有国である列強は、相変わらず世界を数十回焼き尽くしても余るほどの核兵器を所有して手放そうとしません。そんな列強を羨み、その一員になろうとしているのが、今の日本なのです。

 実は、核保有国である列強は、皆キリスト教国です。なのに彼らはイエス様の教えに十分に従うことができていません。彼らのリードする世界に今、私たちは生きています。世界の人々が軍備を止め、富を分かち合い、支え合って生きていく時代は、果たして訪れるのでしょうか。皆様は「そんな時代は来るはずない...。」と冷めた目で見ておられるのでしょうか。

 否、私たちキリスト者こそ、世界の人々の中で率先して、イエス様の愛の教えと生き様とに倣い、武器を捨て、愛し合い、分かち合って生きていく世の中を作っていくべきなのです。私たちが希求すべき本当の「奇跡」は、平和が築かれて、戦争の恐怖から解放され、富が分かち合われ、世界の人々に食べ物が公平に行き渡り、「決して飢えることがなく、乾くことのない」(ヨハネ6:35)社会を作り出すことなのです。 

 イエス様の弟子である私たちは今、月に一度、主の晩餐式にあずかることによってイエス様のみからだをいただいています。その恵みによって豊かに満たされているのです。私たちはディボーション(日々の御言葉の養いと祈りの時)を通して、これからもイエス様の御言葉を食べていきましょう。

 そして、五千人を養ったパンの奇跡の物語のように「決して飢えることがなく、乾くことのない」(6:35)社会を作り出すために、イエス様の御教えである「命のパン」(6:35485153)をいただいて満たされて行きましょう。

そうしてその与えられた恵みを「少しも無駄にせずに集め」(6:12)、皆で分かち合っていこうではありませんか。

人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい。』と言われた。

                     (ヨハネによる福音書612節)

 

 

2016117日主日礼拝メッセージ                 ヨハネによる福音書4章43−54節

 

           生きる..

 今日のテーマは「生きる..」ということです。イエス様は、ガリラヤのカナにおいて、生死を彷徨う息子を癒してもらうためにカペナウムからやってきた王の役人に対して「息子は生きる..」(5053節)と言われました。「生きる..」と言われたイエス様の言(ことば)を信じ、その役人は帰って行ったのです(4:50)。彼が帰ってみると彼の息子は癒されていました。この癒しの出来事は、ヨハネによる福音書においてカナで起きた「二回目のしるし」(4:54)とあります。結婚式にて水がぶどう酒に変わった「一回目のしるし」は「弟子たちはイエスを信じた」とあり、今回のしるしでは「役人もその家族もこぞって信じた」とあります。この二回のしるしによってそれぞれ人々が「イエスを信じるようになった」とヨハネによる福音書は喜びをもって報告しています。

「わたしは道であり、真理であり、いのちである。」(ヨハネ6:14)と言われたイエス様は、生死を彷徨っている息子を持つ父親に「生きる..」と語りかけました。これを単なる奇跡物語と読むべきではありません。実際に死期が迫っている人が癒されることは滅多にありませんから、私たちは無責任なことを言ってはなりません。それ故「生きる..」とイエス様が語られたことを信仰者として深く洞察してゆかねばなりません。全ての人は生まれ、やがて老いて死にます。人生に春夏秋冬がある厳然とした事実を今一度私たちは受けとめる必要があるのです。キリスト者は、限りある人生を生きている一人ひとりに敬意をもって接し、その人にとって最も必要な助言をし、とりなし祈るべきだと思うのです。

 ヨハネによる福音書に出てくる奇跡は、全てのいのちを司っておられる永遠なる神の象徴なのです。聖書で大事なのは、私たちがどのように「生きる..」べきかを教えておられるイエス様のことばと十字架に至った生き様です。十字架こそ最大のメッセージです。私たちの運命がたとえどんな理不尽なことに思えたとしても十字架に至ったキリストのもとに「然り」として肯定されているのです。ではどうして私たちは会ったことのないイエス様の「十字架の福音」を信じることができるのでしょうか。実は、使徒パウロも一度もイエスと会ってはいません。彼は、彼が迫害して死に追いやったキリスト者の内にキリストが確かに生きていることを知ってから、イエス様の如何に「生きる..」かの教え、「十字架の福音」を信じるようになったのです。

 それからパウロは「生きているのはもはやわたしではない。わたしの内にキリストが生きておられるのである。」(ガラテヤ2:20)と語るようになりました。また獄で死を前に「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)と語ったのです。これらの御言葉にパウロのキリスト信仰と死生観が現れています。

 私たちは、病で苦しむ人のためにとりなし祈ります。今日死を考えている人にあなたは「生きる..」と語りかけます。また家族を亡くし、悲しんでいる人に対して「彼(彼女)は神と共に『生きる..』のです。」と語りかけるのです。それこそが「生きる..」意味、いのちのことばを語る私たちの使命です。

「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』

   その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」

                                                                   ヨハネによる福音書4章50

 

 

 

                  

2016年1月10日主日礼拝メッセージ                                         ヨハネによる福音書41-26

 

  汲めども尽きない水は主イエスから

 本日は、イエス様とサマリア人の女性との出会いの物語です。

イエス様と弟子たちがユダヤから故郷ガリラヤへと向かう旅の途中には、当時のユダヤ人たちが交際しなかったサマリア人の住むサマリア地方がありました。「サマリアを通らねばならなかった。」(3節)とあるのは、ユダヤ人が遠回りをしてそのサマリア地方に入ることを避けていたからです。

 しかしイエス様はあえてサマリア地方に入り、シカルという町にあったヤコブの井戸のそばで座って休んでおられました。そしてそこへ水を汲みに来た一人の女性と出会います。多くの人々は通常日差しの穏やかな朝夕の時間に水くみをしますが、彼女は人目を避け暑い正午ごろに水を汲みに井戸にやって来ました。イエス様はこの女性に水を飲ませて欲しいと語りかけます。女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか。」と尋ね、イエス様は「あなたがもし私が誰であるのかを知ったのなら、私にその水を下さいと願うであろう。」と語られます。

 女性とイエス様との出会いは、イエス様が差別思想を超えてサマリアの町に足を踏み入れたからこそ起こされたのです。またこの女性はイエス様の語りかけに応え、小さな勇気を出して心を開いていきました。イエス様は女性の心を苦しませていた原因が、過去の異性関係にあったことを明らかにされます。

「わたしが与える水を飲む者はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(14節)イエス様の内側にあった泉から水を飲むことによって女性の心は癒され、大きく変えられてゆきます。

彼女はもはや人目を避けることをせずに町に出て行って、自分が出会ったイエス様こそが救い主であることを伝えるのです。すべてはこの女性が変えられたことを通して起こされた御業です。

 私たちもまたイエス様の内面にある自由の霊(詩篇51:14)によって変えられることができます。人は人を信頼すると自分の秘めたる想いを打ち明けたくなります。それを分かち合うことによって自由の霊がもたらす愛によって癒されていくのです。

 このイエス様と一人の女性とが出会ったのがヤコブの井戸だったことには意味があります。ユダヤとサマリアは元々同じイスラエルです。ヤコブはイスラエルの祖、ユダヤとサマリアの統合の象徴がサマリア側にあった。故に現代のユダヤとパレスチナ(当時のサマリア)も統合されてゆかねばなりません。

 私たちは聖書を通して、いつでもイエス様の言葉に触れることができます。汲めども尽きない水は、イエス様の真理の言葉から湧き出てくるのです。「真理はあなたがたを自由にする。」(ヨハネ6:10)自由な霊性をたたえているその水は、決して枯れることがないのです。

 篠栗教会の礼拝は、霊と真理とをもって礼拝がささげられています。霊は私たちに真理をもたらし、真理は私たちを霊で満たすのです。それゆえここには汲めども尽きない泉があるのです。泉とは御言葉のことです。御言葉を日々蓄えていくと私たちの内側にも泉ができて水が溢れ出します。

2016年もご一緒に礼拝に集い、霊の泉から水をいただいていこうではありませんか。

 

『わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』

                     ヨハネによる福音書4章14

 

 

 

201613日新年礼拝メッセージ          ヨハネによる福音書2章1ー11節

 

           栄光の始まり

 皆様、新年おめでとうございます。一年の始まりに昨年から読み始めたヨハネの福音書から御言葉を紐解いてゆきたいと思います。

 本日の箇所は、有名なイエス様によるカナの結婚式の奇跡の物語です。

 ガリラヤのカナという町は、ヨハネ福音書だけに出てくる地名で、ヨハネ福音書の最後の方に出てくるのですが、ナタナエル(つまりバルトロマイ)の郷里(ヨハネ21:2)であったと書かれています。

 

2章1節のところに「三日目に」(2:1)とあります。

ここにある三日目とは何のことなのでしょうか。

1章28節にある「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」(ヨハネ1:28)から数えてカナまでが三日の道のりであるという意味なのでしょうか。それとも1章43節にある「ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って」(ヨハネ1:43)から三日目と考える立場なのでしょうか。

 

そうではなく、この「三日目」の意味は、イエス様がご自身の死から「三日目」に復活されたことを連想させるためにここに「三日目に」と記されてあるのだと私は思うのです。

 このカナの町の婚礼には、イエス様の母マリアとイエス様と弟子たちとが招かれています。そしてイエス様の母マリアが祝宴の用意を手伝っている様子から、イエス様ご自身も客人として招かれたと言うより婚礼を開催した親族の一員かごく親しい者たち、すなわち主催者の側として手伝いに来ていたのだと考えられます。

 そしてその当時の婚礼の祝宴がたけなわとなった時に、あろうことか母マリアが、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました。」と困って相談したのです。

そんな助けを求めてきたマリアに対し、不思議なことにイエス様は、「婦人よ、あなたはわたしとどんな関わりがあるのです。」と突き放したような言い方をしておられるのです。どうしてそのようなことをおっしゃられたのでしょう。

 

そのあと「わたしの時はまだ来ていません。」とおっしゃられる言葉と先ほどの2章1節の「三日目に」という言葉に秘密が隠されていると思うのです。

「わたしの時はまだ来ていません。」という言葉にイエス様が込められた真意は、先ほどの「キリストの時」「三日目の復活の出来事」を意識したものと理解すべきなのではないでしょうか。

 

 さてこの物語の続きにあるように婚礼の祝宴の場には、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いて」(2:6)ありました。この当時のユダヤ教の清めの習慣に関して、マルコによる福音書はこう説明します。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守っていることがたくさんある」(マルコ7:3-4)。

この清めの習慣が前提としているのは、異邦人は穢れており、接触すれば身が穢れるという思想です。このユダヤ人と異邦人の隔ての象徴であった清めの水を、イエス様は祝い喜ぶための「良いぶどう酒」(2:10)へと変えてしまわれるのです。

 水をぶどう酒に変えたこの出来事は、「神の時」に現れる「栄光」を指し示す最初の「しるし」だと言われています。その「栄光」とは、この世の富や力によるものではなく、イエス様の復活によって現される「栄光」を指しているのです。

 つまりこの「水がぶどう酒へと変えられた」奇跡の出来事は、母の願いに応えて危機を救う奇跡であったのではなく、「イエス様が十字架につけられ苦難を味わった後に、神の御力によって復活された栄光」であり、真の奇跡的な時をあらわす「しるし」であることを、ヨハネ福音書は伝えているのです。

 

 ゆえにイエス様は、17章1節において、いよいよ十字架へと引き渡される直前にこう祈られたのです。「時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」(17:1)。

 

 今日の箇所のカナの婚礼の物語の結末として伝えられているのは、「弟子たちはイエスを信じた。」(2:11)ということです。

 

イエス様と共にその場にいた弟子たちが、「イエスを信じた」ということがとても大切なこととして記されてあるのです。弟子たちのイエス様への信仰は、この後何度も試され、問われていくことになります。しかしこの「しるし」にすぎない出来事であっても、それを通してイエス様への信仰が弟子たちの中に生まれ始めたことを大切なこととして伝えているのです。

 

 神様の栄光を讃えて行こうではありませんか。2016年の始めの礼拝である今日の礼拝において、私たちは主イエスを我らの救い主として「栄光の始まり」として讃えていこうではありませんか。

 お祈りいたしましょう    

                 『イエスは、この最初のしるし

                    をガリラヤのカナで行って、

                    その栄光を現された。それで、

                    弟子たちはイエスを信じた。』

                  ヨハネによる福音書2章11